株式会社彩創建築設計の最新情報をご紹介します。

株式会社彩創建築設計

blog&news

花尾城と麻生氏

 花尾山の頂上に本丸を構えていた花尾城。

 

 

 花尾城は1194年(建久5年)、高階忠業の子で宇都宮朝綱の猶子(ゆうし)となった宇都宮重業によって築城されました。

 

 このあたりは、麻生荘と呼ばれていたらしく、どうやら、戦国時代に権勢を誇った、後の麻生氏の始まりらしい。

 

 

 

 1185年、壇ノ浦の戦いで、平氏は源氏に破れ、平氏の時代は終わり、源氏の支配する武家政治が行われるようになりました。

 

 この戦いで平氏方について戦った山鹿秀遠の領地、山鹿荘は没収されて源頼朝の大将、一品坊昌寛(いっぴんぼうしょうかん)へと与えられます。

 昌寛は、頼朝の右筆(ゆうひつ)で、御祈祷師もしていたようです。

 

(右筆とは祐筆とも書き、中世武家の秘書的な役割を果たした文官のことです)

 

 

 しかし、男子の無かった昌寛は、(母方の関係か?)勧修寺一統の麻生朝長の二男、家政を養子として迎え、山鹿荘を譲与したと言われています。

 

 

 この譲られた麻生家政が後の宇都宮家政と言われる人物で、東国下野国(しもつけのくに)から下ってきた人物のようです。

 下野国は現在の栃木県あたりです。

 

 

 源平合戦の勝利後、北条氏の得宗(とくそう)領となった山鹿荘、麻生荘の地頭代として下向してきた「下り衆」と呼ばれたいくつかの武家集団がありましたが、その中の一氏族が宇都宮氏です。

 

 

 豊後の大友氏や薩摩の島津氏もこの時の下り衆だとされています。

 

 

 その後、宇都宮家政の子、時家に嫡流として「山鹿氏」を名乗らせ、弟の資時に麻生荘、野面(のぶ)荘、上津役荘の地頭代の職を譲り、「麻生氏」を名乗らせます。

 これが麻生氏の始まりと言われています。

 

 麻生氏が庶流ながら、本家である山鹿氏を凌ぐ権勢を持つようになったのは、南北朝時代の戦乱期でした。

 

 嫡流の山鹿氏は南朝に付き、庶流の麻生氏は北朝(幕府側)について戦い、南朝が敗れると麻生氏が山鹿荘を支配するようになったのです。

 

 

 室町時代には、山口県の大内氏の後ろ盾もあり、支配地域を拡大していったようです。

 

 

 1433(永享5)年、麻生家春が家督を継いだ翌年の将軍義教の所領安堵状によると、麻生荘・野面荘・山鹿荘・感田荘が記されています。

 

 (現在の洞海湾を取り囲む北九州西部市域と遠賀郡・直方市の遠賀川流域)

 

 

 麻生太郎 元首相もこの豪族の子孫になるのでしょう。調べてるうちに面白い家系図を見つけたので貼っておきます。

 

 

天皇家と麻生家、安倍家は親戚関係になります・・・。

 

天皇家と徳川家も親戚です。

 

 

 

 

首相経験者は親戚同士が多いのがわかります。

 

 

 

 

 by 柳田

 

 

 

 

 

 

  • 介護福祉施設の種類と特徴
  • 介護福祉施設の設計ポイント
  • 建築事務所の選び方
  • 実績一覧
  • 特殊建築物の定期報告料金表
  • 建築計画の料金表
  • ご相談から仕事の流れ
  • 設計に対する姿勢
  • Q&A
  • 建築会社・コンサルティング会社の方へ
  • お客様の声
  • 一級建築士 柳田プロフィール
  • 会社紹介・スタッフ紹介
  • tel:093-571-6121
  • お問い合わせ
  • ブログ

Copyright © 株式会社彩創建築設計. All Rights Reserved.