2015年10月12日、日曜日。
空はどんより曇っていて風も強く、気温も17~18℃と肌寒い日曜日の朝のこと。また、突然思い立ち、「皿倉山に登ろう」と子供たちに提案すると・・・。
小学1年生の長男は賛成!
しかし、まだ体力に自信のない6歳の次男は、乗り気でない様子。
私も、次男はちょっとむりかな、と考え長男だけ連れて登ることにしました。
自宅マンションから、皿倉山は、毎朝起きると必ず見える馴染み深い山です。
車で登山道入り口のある帆柱ケーブル鉄道の山麓駅がある所まで行き、無料駐車場に止めて、ここから登り始めます。
9:20スタート。
登山道入り口を登り始めたら、すぐ銅像がありました。
誰だろう?と近づくと
「守田道隆先生之像」と彫られてあります。
なかなかハンサムなおじさんです。
後ろの碑文に説明が書いてあります。
初代八幡市長のようです。
1898年、鳥取県気高郡大和村に生まれ、1925年、 京都帝国大学土木学科を卒業後、東京市役所に勤め始めます。
1929年、八幡市役所の土木課に10年勤め、一時、長野へ転勤後、1942年に八幡製鉄所に入社し、土木部長として働きます。
戦後の1947年、土木部長の身から、八幡市長選へ出馬し圧倒的な製鉄マンの支持を受けて当選したようです。
そして、3期12年を市長として勤めました。
彼は八幡駅周辺の整備を進め、図書館、市立病院、ロータリー、公民館などを駅前に建てて行きます。
特に、戦後教育が学校教育にのみ偏り社会教育が軽視されていた当時の風潮を憂い、社会教育の活動の中心としての公民館建設計画を作ります。
このプランは、日本全国からも「八幡公民館体制」と言われ、参考にされるほどであったそうです。
当時、日本中が敗戦後の貧しい財政事情の中、八幡市は八幡製鉄所から、当時の金額で2億円という固定資産税を得ていましたので、財政面ではやりやすかったようです。
八幡駅前には村野藤吾氏の建築が3つ残っています。
八幡図書館、八幡市民会館、ひびき信用金庫本店です。
おそらく、守田市長のめざす市の戦後復興計画の一環として、建築家村野藤吾氏に白羽の矢を当てたものでしょう。
八幡図書館は1950年建設されていますが、その当時の外観デザインは今のようではありませんでした。
1956年の第2期工事で3階の内装工事が完成し、1957年の第3期工事で現在のような外壁のデザインが施されました。
工事が3期に分かれたのはどうやら予算の関係のようです。
市に残された図面によると、外壁デザインの白い三角形の部分は「鉱滓煉瓦」、茶色の部分は「特殊煉瓦」と描かれているそうです。
鉱滓煉瓦というのは製鉄の生産過程で生じる鉱滓(スラグ)を使用したレンガです。特殊煉瓦というのは、特注で造ったもののようですが現在、詳細はわからないようです。
八幡製鉄所をかかえたこの八幡の地域性の表現、コスト削減などの理由から使用されたものだろう、と言われています。(北九州市HPより)
さて、少し登山道を登ると、すぐに地蔵や仏像がたくさん置かれているところに出ました。
長男と一つ一つ、もらさない様に地蔵・仏像に手を合わせて行きます。
仏像等のすぐそばに、法輪禅寺と書かれた平屋建ての建物がありました。
この敷地の中にはたくさんの地蔵・仏像が赤い布の胸掛けをしておかれています。