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平戸市、三浦按針の墓

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三浦按針は日本にはじめてきたイギリス人で、英国名をウィリアム・アダムス。

(2015年8月12日来訪)

 

 

 

 

 関が原の戦いの約半年前に当たる、西暦1600年4月29日、豊後(大分県)の臼杵に、オランダ船デ・リーフデ号が漂着し、その船に乗っていたのが、ウィリアム・アダムスでした。

 

 臼杵城主、大田一吉はすぐに長崎奉行に連絡、長崎奉行の寺沢広高は、積まれていた大砲や鉄砲などの武器を押収した上で、大阪城の豊臣秀頼に指示を仰ぎます。

 

 当時は、1549年来日のフランシスコ・ザビエル以来、スペイン・ポルトガルのイエズス会が布教活動をしている時代です。

 

 イエズス会は秀頼に漂着したプロテスタントのイギリス人やオランダ人船員たちを死刑するよう、勧めたそうです。なぜ、そこまでひどい要求をしたのでしょうか。

 

 

 

 そこには、カトリックと新興宗教として急速に勃興しつつあったプロテスタントとの深刻な対立があったのだと思われます。

 

 

 

 

 1517年、神学校教授であったマルティン・ルターがドイツのヴィッテンブルグ大学の聖堂の扉に「95か条の論題」を掲げて、教会へ抗議をしました。

 

 

 これは1515年、ローマのサンピエトロ大聖堂建設の為に教皇レオ10世が贖宥状(免罪符)を販売したことに端を発していました。カトリック教会のこの行為にルターは反発したのです。

 

 結局、ルターは教皇より破門され、新しい宗派をつくりますが、これがプロテスタントの始まりとなりました。

 

 カトリックの海外宣教師たちは、「プロテスタントにどんどん信徒を奪われている」という現状認識の上、相当な危機感を持っていたと思われますし、ライバル心もあったのでしょう。

 

 

 結局、当時五大老首座であった徳川家康が指示し、船を回航させ、家康が彼らと引見することになります。

 

 イエズス会の讒言で海賊ぐらいにしか思っていなかった家康でしたが、ウィリアム・アダムスらからの説明で、プロテスタントとカトリックの対立問題が底に潜んでいることを喝破し、彼らを船ごと江戸に迎えることにしたのでした。

 

 

 

 さて、日本に来る前のウィリアム・アダムスとはどんな人物だったのでしょうか?

 

 

 

 以下、Wikipedia からの抜粋です。

 

生い立ちと青年時代

イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

リーフデ号の航海

 
17世紀のエングレービング。左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホープ号

航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。

  • ホープ号("希望"の意・旗艦
  • リーフデ号("愛"の意)
  • ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
  • トラウ号("忠誠"の意)
  • フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)

司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。

しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島ポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。

 

 

以上、抜粋終わり。

 

 

 

  命がけの旅をしてきたことがわかります。決して、単なる旅行と言う感覚ではなかったはずです。死をも覚悟した大冒険だったでしょう。

 

 

 

 家康の誤解も解け、故国イギリスに残してきた妻や子供たちのことが気がかりでならない、ウィリアム・アダムスは、何度も帰国を願い出たそうです。

 

 しかし、外国人との通訳してもらったり、代数幾何学などを家来に学ばさせる為、家康は彼を何とか慰留し続けます。

 

 

 そして、徳川家康は彼を外交顧問として遇し、250石を与えて召し抱え、横須賀市に住まわせています。そして、アダムスは家康の御用商人の娘、お雪と結婚し一男一女をもうけました。

 

 

 しばらくして、1609年にオランダ、1613年にイギリスとの通商が許され、平戸市にオランダ商館、イギリス商館ができる様になったのは、彼の功績が大きく、後にイギリス商館長コックスのもとでも活躍しました。

 

 そして、1620年5月16日、55歳で病死したのでした。

 

 

 実は、実際の当時の彼の墓は定かではありません。当時の外国人墓地に埋葬されたそうなのですが、その後のキリスト教排斥運動時、破壊されてしまってわからなくなったそうです。(横須賀市に葬られたという説もあります)

 

 

 1954年、平戸市がこの地に彼の墓を建立しました。

 

 

 また、彼の生誕400年を記念して、1964年、彼の妻の眠るイギリスの墓地から、霊魂の象徴しての小石を取り寄せ、ここに夫婦塚として建立したものなのです。

右端が夫婦塚です。

ウィリアム・アダムス夫婦塚

 

 

 

 

by 柳田

 

 

  

 

 

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