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クリストファー・コロンブス

「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

 

には、15世紀末から始まった植民地支配の真実が描かれています。

 

 

 1492年、コロンブスが東インド諸島、サン・サルバトル島を発見して以来、スペイン人の植民地支配は苛烈を極めています。

 

 コロンブスは今や、幼児が読む絵本の中でも偉人に列せられていますが、その実、尊敬するには値しない人物だと、私は思います。

 

 彼の航海の目的はずばり、「金」だからです。

 冒険心や野心は人並み以上だったでしょうが、動機と言動から推察するに、この人は英雄でも偉人でもない。

 こんな人物を幼児に偉い人として教えるのは、教育上問題があるのではないか、と思っています。

 

 

 

 

 キューバ島やエスパニョーラ島を発見した当時、原住民だったインディアンたちとのやり取りの記録を見れば、彼の目的は一目瞭然です。

 

 

 

 

 

 

Wikipedia によると、(以下、抜粋)

 

 

コロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。(A People's History of the United States』)

 

「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した。」
 
 
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
 
 
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」
 
 

 コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名付けた島に到達。

 24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。

 この入植地には39名の男が残った。

 年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。

 1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

 

 

 

 帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。

 

 コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。

 

 この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。

 

 また陸地を発見した者には賞金が王夫婦から与えられるとされていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。

 

 

 国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。

 

 

 

「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」
 
 
 
 

 1493年の9月に17隻・1500人で出発したコロンブスの2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。

 

 11月にドミニカ島と名付けた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間は全て殺されていた。

 

 コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。

 しかし、白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上り、周辺諸島ではアラワク族タイノ族ルカヤン族カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。

 

 

 

 これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。

 

 行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。

 

 まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。

 

 コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗殺人強姦放火拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。

 

 

 インディアンたちは、ゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばら撒く疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。

 

 最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。

 

 

 コロンブスが何カ月もの間病いに臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。

 

 コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。

 

 1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。

 

 再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。

 

 コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった[29]

 

 

 コロンブスと同行し、虐殺を目にしていたキリスト教宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスは、日記にこう記している。

 

 

「一人でもインディアンが森にいたら、すぐに一隊を編成し、それを追いました。スペイン人が彼らを見つけたときはいつも、柵囲いのなかの羊のように、情け容赦なく彼らを虐殺しました。 『残虐である』ということは、スペイン人にとって当たり前の規則であって、それは『単に残虐なだけ』なのです。しかしそのように途方もなく残虐な、とにかく苛烈な取り扱いは、インディアンに対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金輪際思わせないよう、それを防ぐ方法になるでしょう。」
 
 
「そういうわけで、彼らはインディアンたちの手を切り落として、それが皮一枚でぶらぶらしているままにするでしょう、そして、『ほら行け、そして酋長に報告して来い』と言って送り返すのです。 彼らは刀の切れ味と男ぶりを試すため、捕虜のインディアンの首を斬り落とし、または胴体を真っ二つに切断し、賭けの場としました。彼らは、捕えた酋長を火炙りにしたり、絞首刑にしました。」
 
 
 
 
以上、抜粋終わり。

 

 

 彼は最初の残酷極まりない悪魔的な植民地支配者に違いない。彼が偉人であるのは、ヨーロッパ側から見た時だけです。

 

 アジア側(及び当時のインディアンの住むアメリカ側)から見た彼の顔は、まさしく「悪魔」と呼ぶにふさわしい。

 

 

 そして、彼がさきがけた、この悲惨な植民地支配のルールはその後も、残酷さを増しながらアメリカ全土へと広がって行ったわけです・・・。

 

 

 

 

by  柳田

 

 

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